うさ日記

あるがまま。

キリンジ『ニュータウン』への考察

わたしね、趣味でバンドごっこをしているんですけど。
キリンジの曲をやろうということになって、最近になって色々と聴き直して。
まーーー、惚れる惚れる。

キリンジは、初期の作品がとにかく良い。
洒落なメロディを淡々と歌い上げる、優しいのか冷たいのかまるでよく分からないボーカル。
お腹の底を抉られるような、その言語感覚に思わず「ずるい!」と言いたくなるような歌詞。

中でも『ペーパードライヴァーズ ミュージック』(1998)は個人的に名盤!

ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック

ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック

このアルバムの中に入っている、『ニュータウン』という曲がすごく好きで。

いわゆる〔Aメロ〕から〔Bメロ〕に入るところの、メロディと歌詞がたまらないのです。


「ひしゃげた傘の歌は もう歌いたくないのだろう」(一番)

「茨の冠は もう打ち遣りたいのだろう」(二番)


〔ひしゃげた傘の歌〕も〔茨の冠〕も、〔歌いたくない〕〔打ち遣りたい〕ような、彼にとっては忌まわしい存在。
そのフレーズが気だるげに落ちてくメロディとシンクロして、もう最高だ!!!

そして、二番目の「茨の冠はー」の歌詞に続く、


「脊髄駆け抜けてく 悲しみをたやすく 追い抜いてく君は誰だ?」


に繋がってしまうわけだ。やられる。。

まず、〔脊髄〕を〔駆け抜けてく〕ような〔悲しみ〕ってなんだ!?という衝撃から始まるもの。
電気が走ったような、そんな感覚だろうか。
なんだろう、もっと、命を脅かすような?

そんな、滅多に経験し得ない〔悲しみ〕を〔たやすく追い抜いてく君〕の正体、わたしも知りたい。。すごく気になる。。。

そして、〔ニュータウン〕という言葉の響き。
この歌が作られた当時、いわゆるニュータウンはステータスの象徴だったのかな。
都心に住まうほどの財力はなく、一歩引いたところに生活圏を築いた、〔二番手〕の彼らを想う。
通勤に長い時間を費やし、せっせと働いて、家族でささやかな幸せを守る。。

全国各地のいわゆるニュータウンにおける過疎化、高齢化のニュースを思い出す。広々と、ガランとした空洞のような場所。かつて、いくつもの家庭が、ささやかな幸せを描き、暮らした場所。

それをひとりぼっちで眺めているような。
それも、高いところから見下ろしているような。

お腹の奥がキューッと締め付けられるような切なさ(〔絶望〕や〔諦め〕に近い)と、脊髄を駆け抜けてくほどの悲しみを「たやすく 追い抜いてく君」が引き連れてきてくれた仄かな希望が、ない交ぜになって押し寄せてくる。


本当に、君は、誰なのさ?

彼に倣って、苦笑気味に問いかけてみても、答えが返ってくるはずもなく。



そして、この歌は誰がなんと言おうと、早朝に合うのだ。

ひんやりした朝にも、蒸し暑い朝にも。
駅へと続く坂道の途中にも、静まり返る裏路地にも、よく合う。

早朝の、覚醒しきらないアタマに、遠くからささやかな希望を運んでくれるような、あのイントロを流すのだ。


この歌を聴いた朝のわたしは、救われたのか追い落とされたのか、最早よく分からない。
分からないけど、分からなくさせられることが、混乱させられるのが、何故だか心地よい。


わたしにはこんな曲は作れないけど、この心地よさがきっと、わたしを磨いてくれる。
なんとなくそんな気がする。


それにしても、二十年の時を経ても古くならない楽曲って、すごいことだと思う。
メイクやファッションに至っては、十年前のものだって古くさく感じて耐えられないのにね。